自称ダーリンという謎の生命体と、ねじれた時代の愛し方についての考察
糸井重里がほぼ日刊イトイ新聞で20年以上毎日連載しているミニコラム「今日のダーリン」のダーリンというのは糸井重里のことだ。ダーリンがイトイの愛称、というより糸井が突如ダーリンを自称してコラムのタイトルに据えたということらしい。
また、このコラムはバックログが公開されていない。ダーリンの様子が気になる人は、まいにちダーリンにあいにいこう!これがほぼ日の提案するインターネットの形であり、一貫している。
あーらよっと。
おっかない国家とおっかない家庭の狭間でひらがなを配る仕事
糸井重里は法政大学に入り、学生運動に参加している。そのことについて考えたい。
警察がおっかなくて仕方なかった→おかみに逆らっている運動の人々は憧れだった。運動の新人として現場に立つと暴力にさらされ、先輩が守ってくれる。今度は自分が第一線へ…という形での1年半くらいの活動に見切りをつけた理由は内ゲバで、ビールがなくなったからとってくる、と言って逃げ出したらしい。
大学に入った理由を学生運動に参加するため、と答えている糸井(わたしはこの問答のソースにはまだあたってない)は、別のところで運動を子供の家庭内暴力、と語っている。戦後日本を機能不全に陥った家庭のメタファーとして捉えているわけだが、その彼がのちの仕事で暮らしの価値を再提案しようとしたことはまったく筋が通っている。このことを転向というか資本主義社会への迎合として捉えるのは簡単だし理屈としては間違っていないが、一方で彼の行動自体のスタンスは変わっておらず、アウトプット先が大衆へと向かっただけだ。抑圧的で父権的なシステムに対するレジスタンスが、ほぼ日のひらがなテキストにもっともわかりやすくあらわれている。力と力をぶつけ合うのではなく、暮らしのしなやかさを最大限に見出していくようなやり方を、彼の活動に見いだせないか。
都合よく生き残った鼠たちと、現状追認のゆりかご
闘争に見切りをつけ、別の場所で一見まったく違った形で活動をする、というのはドキュメンタリーの三島由紀夫VS東大全共闘で過去の討論映像の合間に挟まれる老いた全共闘世代の独白シーンでも似たようなことを言っていたはずだ。この作品を見たときは正直受け入れがたかった。生き残った人が都合のいいことを言っている!と感じたのだ。
しかし(あまりにも突然に感じられるかもしれないが)村上春樹の「ぼく」と「鼠」のストーリーにせよ、上に書いたような糸井重里の暮らしへの回帰にせよ、それらを資本主義やシステムに対する単純な現状追認だと批判するような素朴さを許される立場に、一体誰が立てるのか?立てないよ。
ダーリンの気配にそっと首をかしげる
①日本のある時代に生きた者たちが抱えざるを得なかったねじれについて、もう少し考えてみてもいいのかもしれない。
②いっぽうで、ダーリンというセンスに対する直感的な拒否感についても、一緒に歩いていきたい。この拒否感はやはり我々が獲得したもっとも有効なものの一つのはずだ。
糸井重里について考えるためには①と②の両立を避けてとおるなんてとんでもない!