20260602

自称ダーリンという謎の生命体と、ねじれた時代の愛し方についての考察

糸井重里がほぼ日刊イトイ新聞で20年以上毎日連載しているミニコラム「今日のダーリン」のダーリンというのは糸井重里のことだ。ダーリンがイトイの愛称、というより糸井が突如ダーリンを自称してコラムのタイトルに据えたということらしい

また、このコラムはバックログが公開されていない。ダーリンの様子が気になる人は、まいにちダーリンにあいにいこう!これがほぼ日の提案するインターネットの形であり、一貫している。

あーらよっと。

おっかない国家とおっかない家庭の狭間でひらがなを配る仕事

糸井重里は法政大学に入り、学生運動に参加している。そのことについて考えたい。
警察がおっかなくて仕方なかった→おかみに逆らっている運動の人々は憧れだった。運動の新人として現場に立つと暴力にさらされ、先輩が守ってくれる。今度は自分が第一線へ…という形での1年半くらいの活動に見切りをつけた理由は内ゲバで、ビールがなくなったからとってくる、と言って逃げ出したらしい。
大学に入った理由を学生運動に参加するため、と答えている糸井(わたしはこの問答のソースにはまだあたってない)は、別のところで運動を子供の家庭内暴力、と語っている。戦後日本を機能不全に陥った家庭のメタファーとして捉えているわけだが、その彼がのちの仕事で暮らしの価値を再提案しようとしたことはまったく筋が通っている。このことを転向というか資本主義社会への迎合として捉えるのは簡単だし理屈としては間違っていないが、一方で彼の行動自体のスタンスは変わっておらず、アウトプット先が大衆へと向かっただけだ。抑圧的で父権的なシステムに対するレジスタンスが、ほぼ日のひらがなテキストにもっともわかりやすくあらわれている。力と力をぶつけ合うのではなく、暮らしのしなやかさを最大限に見出していくようなやり方を、彼の活動に見いだせないか。

都合よく生き残った鼠たちと、現状追認のゆりかご

闘争に見切りをつけ、別の場所で一見まったく違った形で活動をする、というのはドキュメンタリーの三島由紀夫VS東大全共闘で過去の討論映像の合間に挟まれる老いた全共闘世代の独白シーンでも似たようなことを言っていたはずだ。この作品を見たときは正直受け入れがたかった。生き残った人が都合のいいことを言っている!と感じたのだ。
しかし(あまりにも突然に感じられるかもしれないが)村上春樹の「ぼく」と「鼠」のストーリーにせよ、上に書いたような糸井重里の暮らしへの回帰にせよ、それらを資本主義やシステムに対する単純な現状追認だと批判するような素朴さを許される立場に、一体誰が立てるのか?立てないよ。

ダーリンの気配にそっと首をかしげる

①日本のある時代に生きた者たちが抱えざるを得なかったねじれについて、もう少し考えてみてもいいのかもしれない。

②いっぽうで、ダーリンというセンスに対する直感的な拒否感についても、一緒に歩いていきたい。この拒否感はやはり我々が獲得したもっとも有効なものの一つのはずだ。

糸井重里について考えるためには①と②の両立を避けてとおるなんてとんでもない!

20260510

MOTHERというゲームについて

あまり情緒的にも論理的にもかけない。疲れているので。無理くりなスケッチで行きます。

MOTHER=母の不在

タイトルに反して、このゲームの世界では母性が失われていてプレイヤーはその代理としてして振る舞うことを求められる。うたう/いのるコマンドは、本来はそれをしてくれる母がいないために実行されなければいけないという形を取っている。マリア、またはポーキーの母の不在。3のことはいったんおきます。3の演出は全体的にアンチマザーシリーズ的なところがあると思っており、セルフアンサーである作品をシリーズ解釈に持ち込むと混乱が起こる!

母性の不在に関して糸井の個人的な事情に言及することもできるが、そこで得られるものは少ないと思う。ここではもっと大雑把に、家族的な絆が機能しない部分に対して準家族的な働きかけをして回復をこころみるものとしてシナリオをとらえておく。そこに至るまでに主人公はいくつもの試練を超えなければならないが、手に入れた力の使い方が巨悪をぶんなぐることではなくて、テンパってるやつをなだめることなのは覚えておいてほしい。つまり、アンチカタルシスなのだこのゲームは。

資本主義への言及

1はSFとファンタジーを絡めたアメリカツアーであった。2はそれらの要素に加えて、資本主義ワールドツアーとそれに伴う自分探しの旅(「おまえの場所」)になっている。特徴的なのはその旅をリードするのがオスカー像(マニマニの悪魔)なことだ。最終的にオスカー像はまぼろしを見せるマシンであったことが示されるが、2においてはそのまぼろしのシーンがもっとも評価されている部分の一つだし、そもそも資本主義が生み出すまぼろしというのはゲームそのものもそうなわけで、皮肉すぎる。この皮肉な状況についてもあまり突き詰めて言及しないほうがいいような気がする。

結局このゲームは資本主義がいいものかわるいものか、みたいな価値判断はくださない。たんにデパートやダイナーがあるように、ネッシーがいたりPSIがあるように、まぼろしとうえいマシンも、この世界は含んでいるという話をしているだけだ。悪い言葉を使えば現状追認型なこのスタイルはしかし、マニマニの悪魔をほぼ日が実際に商品化したことからも分かる通り、ゲーム内に限らず糸井重里の活動全体に共通している。フラットで、軽快なやり方。

これも一段目と同じ話になるが、邪悪な部分をカットすればいいという考え方をこのゲームはしていない。マニマニの悪魔は結果としては主人公たちに破壊されてしまうが、なりゆきでそうなっているだけで、破壊すべきだ!という話ではない。また、そのあたりの流れでトンヌラさんが死んでいくシーンに関しても、恐ろしいほどドライに主人公たちは振る舞っている……というか単に無視している。この価値判断のなさについても覚えておいてほしい。

徹底したドライさ

母の不在についてもとにかく不在であり対応して振る舞うだけだし、資本主義も残酷ではあるがそれ自体はどうしようもない。このような正しい姿の希求のなさがこのゲームの特徴としてあると思う。ここでは価値判断だけではなく、怒りのモードが意図的に排除されている。確かにこのゲームは、そのリラックスした感じからくるやさしさやおもしろさや不気味さが大きな魅力としてある。

でも価値判断や怒りを出したくないなら、そもそもそういうものが必要にならないような展開を用意すればいいはずだ。本当はこのゲームは価値判断に満ちている。無数の糸井重里によるセリフ、ストイック・クラブ!また、どせいさんやグミ族にみえかくれするオリエンタリズム。価値判断がないフラットなフィクションなど、もちろん、ない。でもMOTHER(というか、特に2だが)においては戦いにまつわるモチベーションが、洗い流されている。

それはもちろん一般的なゲームがバトルばかりであることに対する(MOONのような)アンサーであることは間違いないだろう。戦争のテクノロジーとしてのコンピューターをビデオゲームの道具としたような転換が、MOTHERにおいても起きているのだ。戦いの熱狂を鎮めるようなドライさによって。

でも、もちろん、われわれはこのドライさを、そのまま受け取ることの難しさも感じている。いや、多くの場合は受け取れるのかもしれないけど、局所的にはかなり難しいのだということを知っている。

SNSのことだ。

20260509

物理メディアの深海で完膚なきまでに雪をかく

TSUTAYAディスカスってサービスがある。 彼らはたぶんDVDやCDをレンタルする権利をもっていて、でもストリーミング配信する権利は持っていない。ので、ビジネスするためにはディスクをやり取りするのが自然なんだけど、店舗を維持するコストは払えない、ので、郵便でディスクを送ってレンタルが終わったら客に返送させる。のだ。

へんだよね。でもそのおかげで配信にはなかなか乗らない映画とかが簡単に見れちゃう。 この世は複雑だ。

ところでディスカスではレンタル落ちのCDの販売もしてて、富田ラボのCDとか買った。 ケースはもちろんジャケットも歌詞カードもすべて廃棄して極限まで管理コストを下げたCDが届く。

BOSEが昔、『明日に向かって捨てろ!』というタイトルの連載をほぼ日でしていて、CDいっぱいあるのでどうしようというのでケースを捨ててスリーブにする、という似たようなことをしていた。ここでは消費者であることが自嘲的に、しかし現実的に言及されていたわけだが、TSUTAYAはもうシステムとしてそれを行なっているわけだ。

自分が糸井に注目するのは、日本が歴史的に忸怩たる思いを抱きながらも、だからこそ過剰な熱につつまれていた資本主義とのうしろめたい関係を、大衆にとってとても受け入れやすい形に変換する、そのプロセスをそのままビジネスとして行なっていたからだ。それは当時はきらびやかなしごとであり、現在から振り返ると褒められたものではないのかもしれないが、ふりかえることで村上春樹が言うところの雪かき的仕事としての側面が見えてくるとも思う。糸井重里を馬鹿にする土壌を、糸井重里が作ったのだ、という。

だからこそ、糸井重里を思いっきり、完膚なきまでに、やってしまわなければならないとも思う。そんなことが、可能なのだろうか?